第15回 『正しい日本語』
皆様こんにちは.同志社大学の土屋誠司です.自然言語処理の第15回目の今回は,正しい日本語について書いてみたいと思います.
前々回の自然言語処理の第13回目で略語や若者言葉という表現について書かせていただきましたが,「最近の若者の言葉は乱れている」とか,「ちゃんとした日本語をしゃべる人が少ない」などと批判されることが多くあるように感じます.「最近の若者は」現象と私は呼んでおるのですが,このように批判している方々もまた同じように,若かりし頃にはその上の世代の方々から「最近の若者は」と言われていたのだと思います.私もすっかりおっさんですが,上の世代の方々からよく同じように言われた記憶があります.この「最近の若者は」現象は,別に今に始まったことではなく,実は,古代ローマの人々も同じように批判していたようです.実際に,古代ローマ時代の遺跡には,このような愚痴を書いた落書きが見つかっているそうです.やはり,時代は繰り返されるようです.最近,おっさんになってしまった私も若者を見て思うことがありついつい...反省するばかりです...
さて,この「最近の若者の言葉は乱れている」,「ちゃんとした日本語をしゃべる人が少ない」ということですが,このようなことを言うと専門家の先生方に怒られてしまいますが,そもそもちゃんとした日本語とは何なのだろうかと言語学の専門家ではない私は思ってしまいます.言葉は「生き物」だと私は感じています.第12回の自然言語処理の言葉のあいまいさのところでも書かせていただきましたが,新しい言葉が日々どんどん生まれてくる一方で,死語として使われなくなってしまう言葉もまたたくさんあります.その過程で,一つの言葉の意味の幅が広がったり,まったく異なる意味になったりすることもあります.時代と共に,環境と共に変化し,進化すべきものこそが,言葉の本質ではないかと思います.確かに,伝統,習慣,風習として大事にしていかなければならないものはたくさんあります.しかし,それに束縛され,拘束されることだけが正しいことだとは残念ながら思えません.ほんとに,ずーっと同じ文法,同じ語彙で生活すべきものだとすれば,我々は今も平安絵巻に出てくる,いわゆる「古文」で習うような言葉を今もしゃべっていないとおかしいことになりますよね.
「最近の若者は元気がない」とか,「想像力が欠如している」などと言われることもありますが,周りにいる上の世代の方々に受け入れられないという環境があるからこそ,このようなことをしなくなってしまうのではないでしょうか?いわゆる「殻破り」ということですが,殻を破るとそれを嫌う方々がいるのも確かな事実です.一方「殻破り」ですので,一度は「殻」にしっかり収まる必要もあるのだと思います.若者には素晴らしい,新しい発想があるかと思います.それをそのままただ単に外に出すだけではなく,しっかり一度は伝統を重んじ「殻」に入ってから,しっかりと殻を破って欲しいと思います.思う存分,若者ならではの物事を作り出して欲しい.そして,素晴らしい物事に対しては,しっかりと受け入れられる環境を上の世代の人々は作っていかないと,今後,新しい発展は難しい世の中になっているように感じます.
次回は,比喩の難しさについて書いてみたいと思います.